
──誰も知らない英雄(アンサング・ヒーロー)
この世界で唯一の、人間と怪奇の混血の青年。
さざ波の悪影響を一切受けない、たった二人のうちの一人。
外見は一見見分けがつかないほど、隅々まで人間そっくりである。
人との関わりを断ち、既に荒廃した第一層でひとり、絵描きと彫刻に耽っている。
たったひとりで暮らしていた。
いや、もはや「暮らしていた」と言えるのかすら怪しい。
かろうじて生きてはいたが、もう死んでいたも同然だった。
”仕事”で手に入れた干し肉さえもほぼ飲み込むことはなく、2,3日に一度、ごく少量を口に含む程度だった。
彼には、どんなドラッグも効かない。
自殺しようとしても、過剰に丈夫な肉体ゆえに絶対に死ぬことができない。
いくら傷つけても血を流してもすぐに塞がるその身体に、彼は心底気持ち悪さを感じていた。
血筋によって「死」という救済すら奪い取った怪奇も、自分を虐待した人間も好いていなかったが、それでも本心では人間に憧れていた。
自分自身が混血であることを嫌い、過剰な自意識から「普通の人間のレール」から逸脱する自分を許容できなかった。
必死で人間を装い、コートを着込んで周囲と同じ速さで歩こうとしても、常に仮面が半分ずれているような違和感を撒き散らしてしまう。
他人と関わろうとすれば過剰な自分ツッコミやサービス精神に走り、奇異の目で見られ、さらに深い自己嫌悪へと堕ちていく。
本当の自分から逃げ続けながら、絶望と恐怖の悪夢に苦しむ日々。
ずっと「誰か強い人が自分を外へ連れ出し、否応なしに幸福にしてくれないか」と夢の中に生きていた。
そんな彼の前に現れたのが、あの少年、セイガであった。
出会った頃から不思議な懐かしさを感じ、何をするまでもなく最初からお互いを信頼し合っている存在。
記憶喪失中のカイが理解しているのは「カイ」という名と、自分の異常な回復力、そして何故か「朽ちた波」の影響を受けないことだけである。
繊細で傷つきやすく、妙な物に好かれやすい感受性の持ち主。
普段は不安に満ちた表情をしているが、イーゼルの上のキャンバスに向かい合っている時だけは違った。
意志と知性に満ちたおとなの顔、芸術家の顔だった。朽ちた波の美しさに魅了されながら自己表現に喜びを見出していた。
絵を描いている時間だけ、一番苦手な「本当の自分」になれている気がした。
物静かだが思春期真っ盛りの彼は、セイガに恋をする。
懐かしい感覚とともに訪れる、心臓のときめきと口中の渇き。
恋によって視界が開けると同時に、自身の醜さとセイガの美しさを比較して絶望し、葛藤する。
男性、それも幼い少年への恋心を封じ込めようと抗いながらも、芽生えた母性から甲斐甲斐しくセイガの世話を焼くことで、誰かに必要とされる歓びを感じていた。
セイガとの関係は、彼にとって誇り高く守るべき宝であり、同時に重荷でもあった。
実ることのない片思い。家族としての関係。
小さな幸せの輪郭の中で、カイは常に切なさを抱き締めながら生きている。
しかし、終わりゆく世界を眼下に過ごす穏やかな日常も、そう長くは続かなかった。
↓以下、ネタバレ注意
